沖縄に来て車を運転していると感じることがあります。

沖縄の、特に首里の住宅街は道が狭く、交通事情が悪く、片道通行で譲り合いで行き交わないと通れない道路が多く存在します。

ところが、この行き交いがとっても感じ悪い。沖縄 交通事情

多くの人が道を譲ってくれて「当たり前」のような顔をして通り過ぎて行きます。

中には待っているこちらの車をにらんで行き交う人もいます。

大阪では考えらないことでした。

大阪では車が行き交うときは、お互いが必ず会釈をする習慣がありますので、沖縄に来て信じられない思いでした。

「沖縄県民は家族」という危うい思想

沖縄に1年ほど住んでみて、だんだんと理由がわかってきました。

それは、「沖縄県民は家族」という同族意識が原因ではないかと考えるようになってきました。

すなわち、県民は家族なので、譲ってもらって「当たり前」と思う人が多いのではないかと思います。

日本人の中にも家族意識、同族意識は当たり前のように存在し、本土では「親しき仲にも礼儀あり」で、譲ってもらったら会釈をするのが礼儀だという意識があります。

でも沖縄の同族意識は、私が本土に住んでいる間に、なにか曲がった方に行ってしまっている気がしてなりません。

沖縄では、ことさらに多くの人が「ゆいまーる」であったり、先ほどの県民意識を強調します。

何か話のふしぶしに、こうした話題が出てきます。

仲間内でお金を積み立てる模合の習慣も仲間意識を強調します。

1年も住むと、こうした啓発が、かなり強要的な性質を持って伝わってきます。

すなわち、沖縄県民は家族なんだから、助け合わなければならないし、お互いを尊重し合わなければならない。

というような、それが義務のようなニュアンスで伝わってくるのです。

「お・も・て・な・し」は口に出して言うものではない

一方の日本社会の同族意識は、ことさらに口に出して言うものではなく、皆の心の奥底に連綿と歴史的に引き継がれて来ているもので、強要することもなく、そこにあってあるものという高度な意識として共有されていると思われます。

沖縄 交通事情言葉に出さなくても、お互いを思いやり、助け合う気持ちは強要されることなく、共有されているわけです。

沖縄県民の押し付けがましいぐらいの県民意識は、もしかしたら、日本人のようにもともと持ち合わせてないから、強調されているような気もしてきました。

中国や韓国で儒教が根付いたのは、「仁、義、礼、智、信」という精神が、彼の国ではもともと持ち合わせていないので、儒教の精神が必要であり、日本にはもともとそういう教えがあり、根付いていたので儒教は流行らなかった。

沖縄県民意識の植え付けの激しさは、そんな話を思い起こされました。

沖縄の交通事情の話から、少し道がそれてしまいました(^^;)

とにかく、道を譲り合ったなら「笑顔の交換」でお互い気持ち良くハンドルを握りたいものです。