沖縄旧海軍司令部壕へ行きました。

あの沖縄戦では多くの日本軍人、沖縄県民が犠牲になったことは周知の事実です。

沖縄に生まれ、現在、沖縄に住んでいる人間としては無視できない歴史ですが、戦後70年、そんなことがあったとは到底思えないままに私たちは生活しています。

戦後70年が平和と言えるかどうかはわかりませんが、少なくても戦争がない状態が継続しました。

日本がこうした安定した社会を築くことができているのは、多くの先人たちの犠牲があったからだと、こうした戦跡を訪ねると感謝の思いがこみ上げます。

沖縄の旧海軍司令部壕は、沖縄県那覇市小禄の小高い丘にあります。

正確には沖縄県豊見城市になります。

旧海軍司令部壕の丘の上には、慰霊碑が空高くそびえ立っており、展望台からは那覇市街が一望できました。

沖縄旧海軍司令部壕の慰霊塔

沖縄旧海軍司令部壕で残された大田実中将の電文

旧海軍司令部壕は、後方の小禄飛行場を守るために建設されたそうです。

全長450mの枝分かれした坑道といくつかの部屋で構成されています。

当時、海軍の兵士がつるはしを使って手動で掘ったとは思えないほど、完璧な壕に見えました。

沖縄旧海軍司令部壕を掘ったつるはし

沖縄旧海軍司令部壕への階段

沖縄旧海軍司令部壕の作戦室

部屋はコンクリートと漆喰で固められ、とても頑丈に見えました。

ちゃんと自家発電で電気も整備されていたようです。

作戦室や、幕僚室、信号室、発電室、医務室(仮定)、下士官室などが公開されていました。

幕僚室は大田実中将とともに幕僚が自決した部屋です。

手榴弾で自決した痕跡が壁に生々しく残されています。

沖縄旧海軍司令部壕幕僚室の手榴弾跡

戦闘が激化した時期に、この旧海軍司令部壕には約4000名もの兵士が集結し、実質的に坑道は兵士たちの兵員室になったそうです。

すきまなく兵士がいて、立って寝ていたそうです。

沖縄旧海軍司令部壕の坑道

沖縄旧海軍司令部壕の坑道

 

兵士というものの、多くの兵士が沖縄防衛のために日本全国各地から招集されてきた、言わば、私たちと同じ一般国民です。

旧海軍司令部壕の最後の方に司令官室が登場しました。

沖縄旧海軍司令部壕司令官室

大田実中将が自決した司令官室ですが、壮絶な沖縄戦の末期、自決をする前に打った以下の電文がとても有名です。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

この電文の全文が電文ママの文章と現代語訳の掲示がされていました。

沖縄旧海軍司令部壕の司令官室で大田実中将が打った電文

大田実中将の海軍次官あて電文全文(現代語訳)

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

(Wikipediaより引用、一部筆者にて改変)

自らが自決の前にも関わらず、それを顧みず、沖縄県民の献身的な働きに対し、心を砕き、沖縄の後世を心配し、打った電文の全文を読み、私は心からの感動を覚えました。

万感の思いがこみ上げ、目頭が熱くなりました。

この電文のおかげで、沖縄には戦後、多額の復興金が支援され続け、まさに特別のご配慮がなされてきたように思えます。

また、実際には沖縄県民も自ら日本軍に協力をし、軍民一体となって戦った、まさに戦友だったことがうかがえます。

こうした真実が曲げられ、日本軍が加害者で沖縄県民が被害者のような刷り込みがなされてきました。

もちろん多大な犠牲を払った沖縄戦は全肯定するわけではありません。

陸軍と海軍の作戦のかい離や命令系統の乱れが県民をまきこむ混乱をもたらしたことも事実でしょう。

しかし、沖縄防衛のために、全国からかき集められた日本軍兵士は本当に加害者なのでしょうか?

もう一度書きますが、日本全国から集められた兵士は、そのほとんどが職業軍人ではなく、一般国民であったことを忘れてはなりません。

遠い沖縄の地で命を散らした先人たちが、今では加害者、悪者扱いをしている。

このことは日本人としての誇りある態度でしょうか?

彼らの犠牲があって、今の沖縄の安定があり、繁栄があるのではないでしょうか?

硫黄島の戦いと沖縄戦との違いは何でしょうか?

沖縄戦は日本防衛の捨て石になったことを非難する人もいますが、では硫黄島はどうだったのでしょうか?

たまに、沖縄移住者の中でも自分たちの先祖が沖縄には多大な迷惑をかけたという論調でうちなーんちゅと接しているとの投稿が見られますが、本当にそうだったのか検証もせずに、沖縄被害者論を無批判に受け入れている方が多く感じられます。

沖縄戦で起きたことを、しっかり自分の頭で考えないと、戦後GHQが行ったウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムというプロパガンダに、脳みそが知らぬ間に染まっていることになります。

沖縄に残された戦跡を私自身も観光目線で見て来た反省もあり、今回、再度、沖縄旧海軍司令部壕を見学しました。

こうした戦跡を訪れる時だけ感謝の思いに至るのではなく、今の自分たちの生活の足元に日本の、沖縄の歴史を築いてきた先人たちの犠牲があったことを、いつも忘れてはならないと思わされました。

沖縄旧海軍司令部壕から出撃する兵士の絵